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March 27, 2007

●Sergio & Odair Assad: Saga dos Migrantes

Assad_migrantes.jpg

Sergio Assad (g)
Odair Assad (g)

 コンスタントに活動をしているクラシック・ギターのデュオでは、まず紹介しなければいけないのがアサド兄弟だろう。兄セルジオと弟オダイルは4歳違い。自らたちを「4歳離れた一卵性双生児」と称することもあるが、その言葉通り、完璧なアンサンブルには思わずため息が出てしまうほどだ。

Assad_alma.jpg アサド兄弟のことを知ったのは、ある雑誌にギタリストの渡辺香津美氏が、今一番気になっているギターアルバムとしてアサド兄弟の『ブラジルの魂』をあげていたからだ。このアルバムには、ジョン・マクラフリンとパコ・デ・ルシアの演奏で有名になった、エグベルト・ジスモンティ作「Frevo」が入っていて、今回紹介する作品と甲乙つけがたい名盤といえよう。

 ギターものはほとんどなんでもといっていたわりには、クラシック関係はほとんど聴いていなかった当時、「香津美さんが薦めるくらいだから・・・」と手に入れて聴いてみたところ、何となくピンと来なかったというのが正直な感想だった。アンサンブルの凄さは十分わかるのだが、生ギターのアンサンブルといえばスーパー・ギター・トリオ系のものを愛聴していた耳には、何だが音が遠く、きれいにまとまりすぎているような感じがしたのだった。
 それでも、何度も聴き続けているうちに、だんだんとその素晴らしさがわかってくるようになる。なんといっても特筆すべきは、タッチである。二人のつむぎ出す音の立ち上がりの見事なこと。あまりに流暢なので、さらった聞き流してしまいそうなフレーズも、大きな流れの抑揚がしっかりあるのだ。

 二人の愛器は、ニューヨーク在住のトーマス・ハンフリー作のもの。トムはギターの表面板に対して指板の位置を上げるレイズド・フィンガーボードというシステムを普及させた張本人。最近では、日本の製作家でもこのスタイルを用いている人がいる。表面板裏のブレイシングと呼ばれる補強兼音響コントロール部材にも、独自の工夫が施されていて、彼の楽器の音の立ち上がりの素晴らしさは誰もが認めるところであろう。
 ギター専門誌のインタビューで、表面板を含めた音作りの考え方を語っていた記事は、アメリカにいるときに熟読したものだった。東海岸在住ということで会うチャンスがなかったが、いつかは会ってみたい製作家の一人だ。

 アサド兄弟は、バッハに始まり、古典的なレパートリーの演奏も素晴らしいが、やはり「南米モノ」を弾かせると、並ぶものがないほどだ。本作では、クラシック・ギタリストがレパートリーとしていることの多いピアソラ、ヴィラ=ロボスをはじめとし、セルジオ・アサド自身の曲や、ブラジルの異才エグベルト・ジスモンティの曲も取り上げている。作曲のみならず、セルジオの編曲センスも素晴らしく、あたかもギター曲であったかのような素晴らしいアレンジを、このアルバムでもじっくりと堪能できよう。

 毎年といっていいくらい来日を重ねているアサド兄弟。次に日本に来たときには、ぜひともコンサートに足を運ぼうと思う。

 ちなみに、このジャケットの写真は、Joel Meyerowitzによるもの。彼の代表作ともいえる、ケープコッド湾で撮影した写真集もよく眺めたものだ。カラーでのスナップ的な風景写真の先駆者であるが、彼独特の雰囲気が、このジャケット写真からも伝わってくる。

March 24, 2007

●Barney Wilen: Sanctuary

BarneyWilen_Sanctuary.jpg

Barney Wilen (ts, ss)
Philip Catherine (g)
Palle Danielsson (b)

 フランス、ニース生まれのバルネ・ウィランが一般に広く知られたのは、1950年代に公開されたフレンチ・ヌーベルバーグの一翼を担っていたルイ・マル監督の『死刑台のエレベータ』のサントラ盤に参加してからだろう。音楽を担当したのはマイルス・デイヴィスで映画のフラッシュバックを映しながら即興で音楽をつけていったという逸話もあるようだ。ここで、派手さはないものの、なぜだか心に引っかかるようなバルネのサックスに惹かれた人も多かったという。

 50年代のパリにはマイルス以外にも、バド・パウエル、ベニー・ゴルソンなどアメリカのジャズメンが集い、クラブ・サン・ジェルマンなどで演奏をしていたこともあり、バルネはマイルスとのつながりを持ち、映画のサントラ盤に参加したわけである。その後もロジェ・ヴァディム監督『危険な関係』(1988年にはハリウッドでリメイクされている)のサントラ盤を自ら手がけた。

 ジャズシーンで注目されたにもかかわらず、60年代に入るとロック色の強い演奏へと移行し、その後は音楽シーンからだんだんと離れてしまったのだが、80年代後半から再びジャズ演奏の場へと戻ってくる。本作は、1991年録音の作品。当時のレギュラー・クァルテットとは異なり、ギターのフィリップ・キャサリーン(カテリーン)とベースのバレ・ダニエルソンによる変則的なトリオ編成。
 サックスを中心にしたトリオ演奏だと、ソニー・ロリンズのピアノレス・トリオ(サックス、ベース、ドラムス)の編成が真っ先に思い浮かぶ。音楽の3要素が、メロディ、和音(コード)、リズムであることを考えれば、単音楽器のサックスは、バッキングに回ってコード感を出すのはかなり難しいといえよう。それでも、上手いオブリガードで雰囲気を出すものもあるが・・・。サックス、ベース、ドラムであれば、ドラムはリズムを刻み、通常はリズム隊とも言われるベースは、分散和音の形でコード感を作り、サックスが旋律を奏でることで、3つの要素を積み上げることは可能だ。
 これに対し、今回のバルネの編成では、リズムの核となる楽器がない。ギターは時としてバッキングによってリズムを刻み、オブリガードを入れたりと、八面六臂の活躍が求められている。フィリップは、そんな状況でも実にリラックスしながら、時にリズム、時にはメロディ、時にはコードをとすべての要素を紡いでいる。

 サックス、ピアノ、ベース、ドラムというクァルテット編成を基準と考えると、必要な要素が常に音空間に満たされているという点で、オーケストラ的と表現できるとしよう。これに対して、今回のような変則トリオでは、常に必要なものを満たすことは不可能である。つまり、最初からすべてを満たすことなどは狙わず、本当に必要なものを必要なだけ埋めていくという感覚で、先ほどのオーケストラ的という表現との対比で考えれば、弦楽四重奏的と言ってもよいように思う。

 マイルスの音楽監督のもとでの演奏の頃の印象と同じように、本作でもバルネのサックスは決して派手ではない。聴く者に極端な集中を強いるわけではないのに、さらっと聞き流させないような音楽。それがバルネの変わらぬ魅力なのかもしれない。残念なことに、このアルバムに限らずバルネの作品はなかなか入手しにくいようである。再発売されると嬉しいのだが・・・。