●Cannonball Adderley: Somethin' Else
高校の頃に聴いていたフュージョンから自然な流れでジャズへと手を伸ばすようになったのは、大学生活を送っていた京都でのことであった。チック・コリアをはじめとするフュージョンの中心メンバーたちは、マイルス・デイヴィスのグループに籍を置いていたり、エレクトリックへと移行していったマイルスの影響を強く受けていたこともあり、まず聴いたのはやはりマイルスだった。
当時、学生でステレオを持っているのは本当にまれで、私も音楽を聴く道具といえば唯一持っていたのがラジオ。いい音でジャズを聴きたいとなると、行くべきところはジャズ喫茶であった。京都には老舗店を含めたくさんジャズ喫茶があったので環境としては申し分ない。
熊野神社から丸太町通りを東に行ったところにあった「サンタクロース」。広い店内にゆったりと腰掛けられるソファーがある。なんと言っても目玉はアルテックのA7という馬鹿でかいスピーカー。もともとは劇場用に開発された機種なのでリアルな音像が浮き上がるさまはすさまじかった。
中心部の河原町まで行くのであれば、時間を見つけて出かけていたのが「蝶類図鑑」。店の名の通り、壁には額に入った蝶の標本がずらりと並ぶ奇妙なお店。ここのスピーカーはJBLのアポロ。
そして、大学から北に行ったときに寄っていたのは一乗寺の「downhome」。こちらはJBLのパラゴンでジャスを聴かせる珍しいところ。
他にもフリー系のジャズをよくかけていた「SMスポット」(すごいネーミング!)、ビルを地下に降りていくと縦長の狭い部屋に、すべての椅子がスピーカーに向かって並んでいた「The Man Hall」、荒神口の老舗店「しあんくれーる」(高野悦子の『二十歳の原点』にもでてくる)などなど・・・。残念なことにここにあげたすべてのお店はもうないらしい。
とても個人では所有できそうになりオーディオで大音量のジャズを聴くという贅沢な時間。ジャズメンが本当に目の前で演奏しているかのようなリアルな音像を経験したことが、オーディオに関する原体験といってもよいかもしれない。
閑話休題。
このアルバムはキャノンボール・アダレイがリーダーとしてクレジットされているが、当時はレコード会社との契約でマイルスをリーダーとしたアルバムを製作できなかったBlueNoteレーベルの苦肉の策。
キャノンボールは後にマイルスのスーパー・セクステットのメンバーとして『Kind of Blue』をはじめとする何枚かのすばらしいアルバムに参加するわけだが、このアルバムでは少なくともマイルスと対等に「行くぞ」という静かな気迫を彼の音から感じ取れる。
フロリダの高校でバンドの音楽監督をしていた彼は、たまたま休みが取れてニューヨークまで出かけ、有名なジャズスポット「ボヘミア」でオスカー・ペティフォード(当時はチャールス・ミンガスとならぶトップ・ベーシスト)・コンボの演奏を見に行ったのが1955年のこと。サックスプレイヤーのジェローム・リチャードソンが到着していなかったことを幸いに、キャノンボールはオスカーに自分をステージに上げてくれと頼み込んで、しぶしぶ承知をしたオスカーを尻目に、ものすごいテンポで「I'll Remember April」のソロを吹くまくったという。
その評判がニューヨーク中に伝わり、あっという間にSavoyとの契約を果たし、ニューヨークでフルタイムのジャズ・プレイヤーとして活躍を始めるようになる。
キャノンボールはチャーリー・パーカーの影響を強く受けているが、考えてみるとディジー・ガレスピーにあこがれてニューヨークに出て、パーカーのグループに参加したマイルスとは共通項も多かったはずである。このアルバムでも、おそらくレコーディング現場では相当なぶつかり合いもあったことは想像できるが、音楽そのものはそれぞれのメンバーがうまく溶け合い、ひとつの完成形として仕上がっている。「枯葉」のイントロが終わり、マイルスがテーマを吹き始めるその最初の一音はいつ聴いても鳥肌が立つほどだ。
とても知的で、じぶんの音楽についても細かく説明ができたといわれるキャノンボール、そしてとても感覚的だったと思われるマイルス。この二つの個性がぶつかり合うのではなく混じり合っているという点からも、マイルスのリーダー作とは違うよさが、このアルバムにはある。
何よりも、キャノンボールのサックスの音は(当時のプレイヤーには多かった)シリアスでダークなのではなく、人の気持ちをハッピーにする力を持っている。